FRBは一部の民間銀行の支配下にあるという陰謀論は本当なのか?

FRB(連邦準備制度理事会)、通称「Fed」はアメリカの中央銀行として、金融政策を担う重要な機関である。しかし、その設立以来、多くの陰謀論や都市伝説が囁かれてきた。

その中でも特に根強く存在するのが「FRBは一部の民間銀行の支配下にある」という説である。この説がどのようにして生まれ、なぜこれほど広まったのかを探ることでその真相に迫ってみたい。

「FRBは一部の民間銀行に支配されている」という主張の起源

「FRBは一部の民間銀行に支配されている」という主張はその設立過程に起因している。1913年に設立されたFRB(連邦準備制度理事会)はアメリカの金融システムを安定させるために必要な機関として設立された。しかし、設立当時からその構造に対して多くの疑念が抱かれていた。

1907年の金融恐慌はアメリカ経済に大きな打撃を与え、中央銀行の設立が急務とされた。この金融危機の後、アメリカの金融システムを改革するために、様々な提案がなされた。その中で主要な銀行家や政治家たちが中心となり、中央銀行の設立について具体的な議論が行われた。

ジキル島会議

この陰謀論の中心には1910年11月に行われた「ジキル島会議」がある。この会議はジョージア州のジキル島にあるJPモルガンが所有するクラブハウスで秘密裏に開催されたものでアメリカの金融界の大物たちが集まり、FRB設立の基礎を築いたとされている。

参加者には以下のような著名な人物が含まれていた。

  • ネルソン・オルドリッチ:アメリカ上院議員で金融改革の推進者。会議のリーダー的存在。
  • エイブラハム・アンドリュー:財務次官補。金融システム改革に深く関与。
  • フランク・ヴァンダリップ:ナショナルシティバンク(現在のシティバンク)の社長。大手銀行の代表として参加。
  • ヘンリー・デヴィソン:JPモルガンのパートナー。金融界の有力者。
  • ベンジャミン・ストロング:バンクァーズ・トラストの副社長。後にニューヨーク連邦準備銀行の初代総裁となる。
  • ポール・ウォーバーグ:クーン・ローブ商会のパートナー。ドイツからの移民で中央銀行制度の専門家。

この秘密会議の目的はアメリカの金融システムを強化し、再発する金融危機を防ぐための新しい中央銀行の構想を練ることであった。参加者たちは当時の金融システムの欠陥を議論し、中央銀行の役割や機能について詳細に検討した。

しかし、この会議の秘密性が、後に多くの陰謀論や疑念を生む原因となった。特定の大銀行がFRBの設立に深く関与していたことから、「FRBは一部の民間銀行の利益のために設立されたのではないか」という疑念が広がった。会議の内容や決定が公にされなかったため、その不透明性が陰謀論を助長したのである。

地方連邦準備銀行は民間銀行からの出資を受けている

さらに、FRB設立法(Federal Reserve Act)が1913年に成立した際も、一部の大銀行がその運営に強い影響力を持つのではないかという懸念が払拭されなかった。FRBは12の地方連邦準備銀行から成り立っており、これらの銀行は地域の民間銀行からの出資を受けていたからである。この構造が一部の人々に「民間銀行がFRBを支配している」という誤解を与える原因となった。

このように、FRB設立に至る過程やその運営構造が、陰謀論を生む土壌となったのである。

歴史家や経済学者による反論

しかしながら、多くの歴史家や経済学者はジキル島会議やFRBの設立にまつわる陰謀論に対して明確な反論を展開している。彼らは以下のような点を挙げて陰謀論を一蹴している。

歴史的文脈と必要性

1907年の金融危機はアメリカの銀行システムの根本的な脆弱性を露呈した。この危機の発端はニューヨークの主要な信託会社であるナッソー・トラスト・カンパニーの破綻であった。ナッソー・トラストの破綻は金融市場に大きな動揺を引き起こし、瞬く間に他の金融機関にも波及した。結果として、銀行間の信用が急速に失われ、取り付け騒ぎが全国的に広がった。この取り付け騒ぎでは数千の銀行が倒産の危機に瀕し、企業や個人の資産が凍結される事態となった。

このような金融危機の背景には当時のアメリカには中央銀行が存在せず、金融システム全体を調整し、安定を保つ機関が欠如していたという問題があった。銀行間の連携が不足し、金融市場のパニックを抑えるための即時の流動性供給手段がなかったため、危機が拡大した。さらに、各銀行は独自の信用供給を行っており、地域ごとに異なる通貨が流通するなど、金融システムの統一性に欠けていた。

金融危機が深刻化する中でJ.P.モルガンを中心とする一部の大手銀行家たちが資金を提供し、倒産寸前の銀行を救済することで何とか金融システムの崩壊を防ぐことができた。しかし、この事態は中央銀行の不在が金融システムの安定にとって致命的な欠陥であることを明らかにした。J.P.モルガンのような個人に依存する解決策は長期的には持続可能ではないと認識された。

この危機を受けて、アメリカの金融システムを改革し、将来的な金融危機の再発を防ぐための中央銀行の設立が強く求められるようになった。金融システムの安定化を図るためには全国的な規模での信用供給と流動性の管理が必要であり、それを実現するための中央銀行が不可欠であった。歴史家たちは1907年の金融危機がFRB設立の契機となり、再び同様の危機が発生するのを防ぐために、経済の安定化を図る必要があったと指摘している。

このような背景から、金融制度の改革が進められ、1913年には連邦準備制度(FRB)が設立されるに至った。FRBは通貨の安定供給、銀行システムの監督、金融市場の調整を目的とし、アメリカ経済の安定と成長を支えるための重要な役割を果たすこととなった。

つまり歴史的背景に鑑みてもFRBの設立は金融界全体、強いては社会全体にとって必要不可欠なことだったのである。この設立のプロセスは多くの政治家や経済学者、銀行家の協力と合意のもとで進められ、複雑で多面的な議論を経て実現した。決して一部の銀行家の私欲でなされたものではないのである。その事実は公開議事録を見ても分かる。

公開された議事録と文献

ジキル島会議に関する記録や参加者の証言は多くの歴史的文献や議事録に詳細に残されている。例えば、フランク・ヴァンダーリップの回顧録『From Farm Boy to Financier』やポール・ウォーバーグの議会証言が挙げられる。ヴァンダーリップは後に自身の著作でジキル島会議の詳細を明かし、その会議がどのように行われたかを具体的に記述している。彼は会議の目的がアメリカの金融システムの改革と安定化であり、不正な取引や秘密裏の協定がなかったことを強調している。

また、ポール・ウォーバーグも、1927年の議会証言でジキル島会議について詳細に語っている。ウォーバーグの証言によれば、会議の主な議題は金融危機の再発を防ぐための中央銀行設立の必要性についてであり、その議論は真摯かつ透明なものであった。彼は議会で会議の参加者全員がアメリカの経済安定のために最善の策を見つけようとする真剣な意図を持っていたことを証言している。ウォーバーグはまた、会議の内容が公的な利益に基づいて行われたことを強調し、これがFRB設立の正当性を裏付けるものであると述べている。

さらに、これらの記録は他の歴史的文献や学術研究でも確認されている。例えば、ハーバード大学の歴史学者ローレンス・クラークが著した『The Genesis of the Federal Reserve System』ではジキル島会議の詳細が綿密に分析されており、その結論として会議が透明かつ合法的なものであったことが示されている。クラークは会議の議事録や参加者の証言に基づき、ジキル島会議が金融エリートの秘密結社の集まりではなく、金融システム改革のための合理的なステップであったことを明らかにしている。

また、ジキル島会議に関する公開資料は学術研究や一般公開も行われている。これにより、一般の研究者や市民もアクセス可能であり、会議の透明性が強調されている。多くの金融の研究者がこれらの資料を分析した結果、会議の内容や目的が広く公的な利益に基づいており、秘密裡に何か不正なことが行われた形跡はないと結論付けられている。

このように、ジキル島会議に関する多くの記録と証言はその透明性と公正性を示しており、陰謀論を裏付ける証拠は見当たらない。歴史家や経済学者はこれらの資料を基に、ジキル島会議がアメリカの金融システムの安定化を目指す真摯な取り組みであったと結論付けている。

多様な利害関係者の合意

FRB設立には様々な政治家、経済学者、銀行家の意見が反映されている。その中でも、ネルソン・オルドリッチとポール・ウォーバーグは特に重要な役割を果たした。オルドリッチは上院の強力な影響力を持つ議員であり、金融改革の推進者であった。彼は欧州の中央銀行制度を参考にしながら、アメリカに適した中央銀行の設立を模索していた。ウォーバーグはドイツ出身の銀行家であり、金融システムに関する深い知識と経験を持っていた。彼の提案はFRBの構造や機能に大きな影響を与えた。

しかし、FRB設立はこれらの人物だけの努力によるものではなかった。ウッドロウ・ウィルソン大統領もまた、FRB設立を強力に支持し、法案の成立に向けて積極的に動いた。ウィルソンは金融システムの安定化が国家の経済発展に不可欠であると認識しており、広範な支持を得るために議会と連携した。彼のリーダーシップのもとでFRB法案は多くの議員の支持を受けることができた。

さらに、FRB設立には銀行家や実業家、学者など多様な利害関係者の意見が取り入れられた。例えば、全米の大手銀行や地方銀行の代表者たちが議論に参加し、それぞれの視点から意見を述べた。また、経済学者や金融専門家たちも、科学的な分析や提案を通じて、FRBの設計に貢献した。この過程で異なる利害関係者間でのバランスが取られ、全体としての金融システムの強化が図られた。

具体的にはFRBの設計には地域連邦準備銀行の設立や、理事会の構成、議会の監視下での運営など、多様な視点が反映されている。地域連邦準備銀行の設立は地方経済の特性を考慮し、中央銀行の政策が全米に均等に影響を与えるようにするための措置であった。また、理事会の構成には政府代表者や民間銀行の代表者が含まれ、幅広い意見を取り入れる仕組みが整えられた。

このようにして、FRBは一部のエリートだけが利益を得るための機関ではなく、アメリカ全体の金融システムの安定と健全な発展を目指す組織として設立された。FRBの政策や運営は議会の監視と多様な利害関係者の意見を反映し、透明性と公正性を維持している。これにより、FRBは広く国民経済のために機能することが可能となったのである。

FRBの機能と透明性

FRBは設立以来、議会の監視下にあり、その運営や政策決定プロセスは非常に透明である。FRBの議長および理事は大統領によって指名され、その後上院の承認を受ける。この厳格な任命プロセスはFRBが民主的な監視の下にあることを保証し、その独立性と公正性を担保するための重要な手段となっている。

具体的にはFRBの議長および理事は14年の任期を持ち、これにより短期的な政治的圧力から独立して政策決定が行えるようになっている。さらに、FRBの議長は4年ごとに再指名されるが、これも上院の承認が必要である。このプロセスはFRBの指導部が常に国民の利益を最優先に考えるように設計されている。

また、FRBの政策決定プロセスは公開されており、透明性が高い。FRBは定期的に連邦公開市場委員会(FOMC)を開催し、この会議では金融政策に関する重要な決定が行われる。FOMCの議事録は数週間後に公開され、誰でもその内容を確認することができる。これにより、FRBの政策がどのように決定され、どのような議論が行われたかについて、国民が理解しやすくなっている。

さらに、FRBは年に2回、議会に対して金融政策に関する報告を行い、議会での公聴会において質疑応答が行われる。FRBの議長はこれらの公聴会に出席し、議員からの質問に直接答える。このプロセスはFRBの政策が議会の監視下にあり、その運営が透明であることを示すものである。

加えて、FRBは独立監査機関による監査を受けており、その財務状況や運営の透明性が保証されている。これにより、FRBの運営に不正や不透明な部分がないことが確認されている。FRBはその運営や財務報告を公開しており、これらの情報は誰でもアクセスできるようになっている。

これらの取り組みにより、FRBはその運営や政策決定が民主的なプロセスの下で行われていることを示している。したがって、民間銀行が秘密裏にFRBをコントロールしているという主張は事実に基づいておらず、FRBの高い透明性と公正性を考慮すると、「FRBは一部の民間銀行に支配されている」という主張は否定される。

最後に

陰謀論が広まる要因の一つとして、メディアとインターネットの影響が挙げられる。インターネット上では情報が瞬く間に広まり、多くの人々に信じられるようになる。YouTubeやブログ、SNSなどで「FRBは一部の民間銀行に支配されている」とする動画や記事が多数公開され、それが事実として受け入れられてしまうことが多い。

しかし、ここまで見てきたようにFRBはその設立から現在に至るまで金融の安定と経済全体の利益を追求してきた。その構造や運営は透明性を保ち、独立性を維持している。誤った情報に惑わされないことが重要である。